W05 織部焼のルーツは古田織部


 古田織部は織部焼のトータルコーディネーターだった
一般的には右の写真の様な焼を「織部」といっています。
しかし織部は大変に広いバリエーションを持っています。
織部の魅力は、その奥の深さといえます。
また、古田織部のモノ作りの考え方は、オリベイズムと
いわれる革新的な哲学といえます。


 ちょっと長文になりますが古田織部の解説文を掲載しました
  (金野善五郎著「ひずみ候也」より抜粋)  

 室町末期から安土桃山時代、天正、文禄、慶長(15731615)の40〜50年間にかけて、天下一宗匠の位を獲得した、武野紹鴎、千利休、古田織部の三茶人がおり、夫々師弟関係にもなっていた。
 なかでも、古田織部は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(秀忠)の三英傑のもとで、武人と茶人の道を立派に使い分けながら、自由、奔放、斬新、独創の精神で茶陶、食器などに限らず、桃山時代の産業文化に大改革を齎した特異な才能の持ち主であった。織部の精神理念は正にオリベイズムとして21世紀の日本美術、産業文化に通ずる理念ではないかと思われる。
 織部は、天文13年(1544)、岐阜県本巣町で生まれた。ときは室町幕府の末期で、世界は、中世も終焉を迎えようとしていた。長じて17才の頃、当時左介と呼ばれていた織部は、天下人となった織田信長のもとへ仕官をする。進取の気性に富む信長の影響を受けて、織部39才の時に、本能寺の変で信長が自刃するまで、その精神形成は信長のもとで培われたといえよう。

 室町時代の流行語で「バサラ」(婆娑羅─華美で派手な服装をしたり、勝手きままな振る舞いをすること)と言う言葉があったが、織田信長は正にバサラな人物であったと思われる。織部はその芸術の展開において、バサラが遺憾なく発揮されたといってよいのではなかろうか。その不均衡な「ゆがみ」「ひずみ」「へうげ」「アンバランス」といった意外なる美。そして反面「いき」「あそび」といったこれまでの美の概念を変えてしまう。それがバサラである。

 博多の豪商で茶人でもあった神谷宗湛が記す「宗湛日記」に、古田織部の茶会の様子がみられる。客は安芸宰相毛利輝元、毛利秀包、宗湛の三人。「セト茶碗。ヒツミ候也。ヘウケモノ也」とあり、新趣向の茶碗が登場した有名な茶会であった。
 ※ヒズミ候也(大辞林─ひずむ→力が加わったため形が歪む。いびつになる。)
 ※ヘウケモノ也 俳人の言、おどけもの
 (大辞林─剽軽もの→気軽明朗であって滑稽なこと。おどけもの。)

 日本の茶の湯は、冷、凍、寂、枯を基本として日本人特有の審美眼に支えられ、唐物一辺倒を脱却した日本独自の茶道であり、千利休はこの美学を最も正確に理解し、そのスローガンを基幹に据えて創造を行い、茶の湯の道を大きく前進させた人である。
 然し、それはある意味では頑なな古風な茶の湯だったのである。

そこにこの美学に何とも無頓着な茶好きの天下人が現れた。豊臣秀吉である。秀吉の茶好きは有名であり、彼が収集した名物の数の多さと、催した茶席の数と言い、茶の湯の大衆化、発展の功労者として空前絶後の武将と言わざるを得ない。そして千利休に全幅の信頼を置き、一位の宗匠であり、何事についても相談役でもあった。従って、冷、凍、寂、枯の美学に忠実な茶人でもあったが、一方では自由気侭に茶の湯のマニアルに従うことなく、破格を楽しむ茶人でもあった。又、天下人としての勢力を天下に示す絶好の道具にも使った。
 古田織部の茶の湯は、秀吉の茶の湯をバックとしたわけではなかったが、利休の古典的で厳格な茶の湯より秀吉好みに近かったし、又一般大衆に受け易い、開放的な茶の湯の道を推し進めるのにそう時間はかからなかった。
 天正13年、秀吉が関白に任ぜられ、豊臣の姓が勅許される。同年、古田左介は、古田織部正(従五位下)山城国西の岡、3万5千石の大名に列せられることとなった。
 天正19年、利休は、秀吉の勘気にふれ、切腹させられる(70才)。利休亡き後、秀吉のもとで織部は、天下一の宗匠を引き継ぎ、「織部十作」とも伝えられるクラフトデザイナーをえらび、自由奔放に各地の陶工に新しい茶器に限らず、やきもの全般を創造させた。
 名物でない無名の茶道具が、古田織部のお墨付きを得ると高い評価になった。これは日本各地の陶工を奮い立たせ、日本文化産業の興隆への偉大なる貢献と言えよう。

 織部は、美濃焼、瀬戸焼、唐津焼、伊賀焼、信楽焼、丹波焼、備前焼、常滑焼などと連絡をとり、各地の陶工は、織部の作風をとりいれながら、夫々その独自の作品を創製し、その個性美を強調していった事が伝世品からも確かめられる。且つ、それらの作品は、織部の茶席の中でみごとに取り合わされ、次々と新しい数奇を演出し、数奇者達にも受け入れられ、そして各陶工の関心を高め、桃山文化の演出者としての織部の地位は不動のものとなった。
 中でも、織部が最も深く交流したのは唐津である。秀吉は、文禄、慶長の役に当って佐賀鎮西町の地に、朝鮮進攻の拠点とする名護屋城を築城する。古田織部は、秀吉の本隊に随行する後備衆となった。唐津は、この地である。
 さらに織部は、美濃の窯大将加藤景延をして、唐津焼の窯を研究させる。景延は、唐津の連房式登り窯を学び、美濃で初めて現在の元屋敷窯跡にみられる登り窯を築窯する。その大量生産方式で美濃は他を圧倒する生産地になり、黄瀬戸、志野で始まった桃山陶器は、美濃黒織部、美濃唐津織部、美濃伊賀など、茶入、香合、向付、鉢、水滴など織部焼は完成に近づくのである。
 かくして、加藤四郎左衛門景延は、土岐の陶祖(織部)とされ、織部は唐津から築窯技術を、唐津は織部の新陶芸様式を学び、互いにギブアンドテイクの交流により共に盛業を齎すのである。前述の信楽、丹波、備前、常滑も夫々その個性を打ち出すとともに、古田織部に学ぶところ多く、桃山陶器は特異な一時期を形成していったのである。

 又、当時京都や大坂で大流行し、町人も武士も快楽桃山を謳歌して着用した「辻ヶ花」染の衣装の文様と織部の文様には、共通点が多く指摘されている。織部正という役職は、染織関係の長官でもあったらしく、織部は京都に邸宅を持ち、京都を中心とした織物、染色関係のデザイナー達と、「織部十作」の陶画工との間で何等かの助言、資料の提供などの交流があったことは推察出来る。「四方蓋物」「扇面蓋物」「手付四方鉢」などと、「辻ヶ花」染の文様は、同根と思われるものが多い。

最後に、ペルシャ陶器と織部について触れてみよう。 

人間国宝・加藤卓男氏は、幻の陶器ラスター彩の発掘と創作に20年余の歳月をつかっている。その際に織部焼と酷似した陶片の発掘に出合っている。夥しい破片の中に、びっくりするような陶片をいくつか発見した。それはまるで織部の陶片と見まちがうばかりのものであった。一部分に緑釉がかかり、白い部分には鉄色も鮮やかに幾何学文様、絵織部そっくりの梅鉢文様や、市松もある。さらに、黄瀬戸風のもの、ところどころに緑釉がかかっているものを見出した。その後加藤卓男氏は、ペルシャ陶と織部、この二つの点を線でつなぐ道を考えた。それは、桃山時代に渡来した南蛮文化のルートである。
 天文12年、ポルトガルの船が九州種子島に漂着し、鉄砲伝来によって日本の歴史が変わった。即ち、南蛮文化が次々と渡来した大航海時代の波に乗って、このペルシャ陶器も日本に流入し、古田織部の日本的発想によって、織部という焼物が生み出された一大要因であったことに違いない。
 ペルシャ陶器は、11〜13世紀に焼成されたものであり、一方、桃山朝は、16〜17世紀。そこには400〜500年の差があったわけである。 

 以上、古田織部について述べて来たが、現在織部焼と一般に言われているのは、緑色の釉薬を掛けたやきものを総称している。然し、古田織部が創作した桃山陶器という観点から言うならば、志野、鼠志野、黄瀬戸、鳴海織部、黒織部、など美濃焼を始めとして、唐津、伊賀、信楽、備前、丹波などにも数多く焼成されていた。又、一方、造形、陶画についても、「誰が袖向付」に代表される変形向付を始め、方形の皿ペルシャ陶器写し、辻が花染の画柄等々、当時としては破格を極めた茶の湯、会席膳に一世を風靡したものであった。然も20世紀の現在においても、茶陶、美術陶芸は勿論の事、一般家庭食器として何等の衒いもなく使用されており、特に近年織部焼の流行には、驚くべき事実であると言わざるを得まい。 


金野善五郎著「ひずみ候也」より抜粋(陶業時報社の新聞に掲載)
 (株式会社 瀬戸屋 会長)

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